昭和五十七年八月三日 朝の御理解
御理解第六十八節
「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。柏手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。」
信心の修行と言うのは、おかげを頂くためにするのではなくて、ね。いよいよ神様をわかり神様を信じる心が強うなる事の為に修行をするのだと思います。雨が降るから風が吹くからと言う、言うならば、その雨風も修行としておかげを頂きますと、ね。本当に雨風の時でなからないと頂けない有り難いと言うものを感じます。その感ずる、神様を感じるその心がいよいよ強うなってくる。
皆、おかげを頂くために一修行と、こう申しますけれども、それは本当は、神様を信ずる事の出来る事のために修行する。でないと最後のところにございますように、ね。例えば、柏手も無理に大きな音をたてる事はいらんとか、人にものを言う通りに拝めとか、言うふうな、いわゆる金光様の御信心の、いわゆる素晴らしいところが実感としてわからない、ね。そこがいよいよ、分かってくれば来るほど、それが強うなってくれば、確かにそうだな。例えば、私の朝の御祈念なんかの場合なんかはそうですよね。柏手もなんも打ちませんから。ぬかづいたとたん、こう、別にそれを言葉に出して言うわけでもないのですけれども。心の中に感じただけで、その感じる事に対して神様が、いちいちそれに対する受け答えをして下さる、ね。それは私が、いよいよ、ね。雨風、そのものを修行として、ね。しかも、どういう修行かと言うと、いよいよ神様を信じる事の出来れる修行をさせて頂いたからだと思うです、ね。ですから、例えば、拝むのに柏手も打たしてもらう。言うなら、祈りの言葉もはっきりと申し上げる、と言う事は、そこまでにいく一つの過程だと思うですね。その為には、やはり一通りの教育も覚えなければなりません。また、お道の信心で言う一つの作法と申しましょうかね。そういう事もやっぱり覚えなければいけません、ね。何もかにも、そこの辺のところの信心の、ま、教養も段々身についてくる。そして、いよいよ雨でも風でもそれを神愛と受け止めさせて、いや、むしろそれを有り難く受けられるような心が出来た。そのむこうにね、私は柏手も無理に大きな音をさせるには及ばぬ、神様には、例えば、なら、私共がね。もう、いちいち聞こえておるんですけども、問題は、その聞いて下さった事に対して答えて頂くようなおかげを受けなければ、神様が聞いてござるだけじゃいかんでしょうが、ね。
例えば、苦しい事があるなら苦しいです、と、こちらがお願いすれば、神様はそれを聞いておっては下さるけども、それを、んなら、苦しくないようにして下さるおかげを頂くのは、私共ですから、ね。それは、なら、何で受け止めるかと言うと、神様を信ずる心。神は信ずる者を信ずると仰せられますから、いよいよ神様がわからしてもらう。いよいよ神様を信じる事が出来る働きを受けて、いよいよ信心の確立と言う事になるのです、ね。信心の確立、そういう意味で私は、合楽教会におかげを頂くと本当に、そこに生きた神様の働きとか、言うならば、神様を目の当りに見るような思いが段々、出来てくるようになりますから、ね。ただ、自分の力だけで神様をわかろうとするのでなくて、わからして頂かずにおれない働きを受けるから、いよいよ神様の間違いない事が、ね。目に見えない世界の事が、ね。心の中にはっきりと感じる事が出来るようにねる。そういう働きは、合楽だはいっぱいあっておる。昨日も、研修の時にその事を話した事でしたけれど。合楽では、そういう働きがいっぱいあっておる、ね。それを私共が見たり聞いたりしていくのですから、神様を信ずる働き、力と言うものもおのずと備わってくる。
昨日一昨日は、佐賀支部の空閑さんのところのお婆ちゃんが亡くなられて百日祭でした。私が、若先生方があちらへ参りまして、たくさん御親戚も、今度は自宅でございましたから、お祭りを仕え終わって、御直会の時にあちらの御主人が、お話しをされるのに二日間にわたって、その、ま、同じような夢を頂いたと、こう言うのです。昨日、御夫婦でお参りをして見えましたから、その事を詳しく、ここでお届けがございましてから、ま、本当に言うならば、合楽の神様は、手ごたえがあると、言う訳なんですよね。その気になって向かえば手ごたえがある。だから、いよいよ信心も手厚うさせてもらわなければいけない。手ごたえも何もない神様を、いかに拝んだところで神様は、聞いておっては下さるけども、信ずる力がないから受け止める事が出来ない、と言うのは、たくさんの霊様が大きな船に乗っておられると言う、お夢を頂いたと。それから、その百日祭の朝のお夢には、これも大きな船に霊様が乗っておられる。それも、帆先のところ、先頭のところに亡くなられたお姿ちゃんが、端然と座っておられるところを頂きました。そして今日のお祭りを頂いて、も、本当に何か知らん、改式のおかげを頂いたと、言う事が、こういう言うなら私の方の空閑の家の霊の助かりの上にも、勿論、ま、合楽の御信心。言うなら、合楽の徳の船に乗せて頂いておる。私共もそうですけれども、目に見えない、言うなら先祖の霊達までが、徳の船に乗せて頂いておる、と、言う事を、ま、わからして頂いたと、言うお届けでした、ね。例えば改式をした。そこに手ごたえを感じた。霊のお祭りも手厚うしなければおられない。だから、おかげも、また、受けると、言う事になるでしょう。これも昨日、佐田秀紀先生が、お届けしてましたが、親に孝行をして神に不幸をし、と言う、あの御理解ね。神に孝行をして親に不幸をして後に、親に孝行をする。あの御理解の朝でした。その御理解を頂いた朝、佐田先生が、お夢を頂いたと、言うのは、箱崎教会長が、もう、私より、もう、十位多くあんなさるじゃないでしょうか。あちらは、もう七十いくつでしょうか。教会長が亡くなると、言うお知らせであった。そしたら。あのう神様から、ね。兄弟二人の信心によって二十年間の生き延びのおかげをと、頂かれたと言う事ですよね、ね。もう、七十いくつの教会長が、老夫婦で教会を守っておられる。ま、今朝からの二人の立派な先生方が、二人そろって箱崎教会に、ま、御用したら、も、それこそ教会長は、も、楽な事であろう、ね。それが、いかにも親孝行だはありましょうけれども、今、佐田先生方、二人は神に孝行と、言う事を先にしておる訳ですね。その神に孝行の親に不幸をしとるようにあるけれども、神に孝行して、そしてその後に親に孝行する氏子がある。息子たちの信心で、また二十年間の生き延びの徳とおかげを受けられる事が出来ると、言うお知らせであったと言う。それは丁度、今の御理解を頂いた朝のお夢であったと、言うのです。そうやって頂いてみるとね、合楽の御理解が、いかに生き生きとしたものかと、言う事を感ずるね、と言うて、ま、頂いた。昨日の空閑さんの場合でもそうです。霊の、言うならば、改式をされた、ね。そして、百日祭のその前、二日間に同じようなお夢を頂いて霊がね。本当に霊が、合楽のお徳の船に乗せて頂いておる。合楽の祈りの中におかげを受けておる。合楽世界に住む事が出来るんだと、と、言う事を信じれれると言う事です、ね。
私、先日、北野の共励会の明くる日でしたでしょうか。誰か、先生が話してましたが、北野の大和さんのお話しを頂きましたが、大和さんが、もうそれこそ、もう確信をもって話しておられたのが、私は、死んだら絶対、合楽世界に住むと、言われたそうですね。
勿論、あれほどの実意な信心がなされとるとね、そういう絶対信が、生まれてくるんですよ、ね。
熊谷さんじゃないけども、日々が、ね。体験させて頂く、その体験こそがです。言うならば合楽で、いわゆる実験実証を日々の教えによって、こう、生みなしていく。おかげを生みなしていく。これが、あの世に持っていけれるんだと、言う、言うなら確信のようなのが生まれてくる、ね。それこそ、この世は、あの世にあると言う事が、信ずる事が出来ると言う事なんだ。だから、この世で、あの世の為の信心修行させて頂いとるから、私は、霊の世界に入ったら、絶対、合楽世界に住むと、こう断言でける。確信がもたれてくる。そこに私は、安心のおかげと言うのがあるのじゃないかと思います。為には、この前半にある、「雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ、その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃ」と、その修行こそがです、言うなら、いよいよ神様を信ずる事の出けれる力になって、ね。あとは、最後にありますように、ね。無理に柏手を、大きな音をたてる事もいらなければ、ね。節をつけて拝んだりする事もいらないと言うようなところが、本当に分かり信ずる事が出来ると思うです。結局、信心とは、神様を信ずる事の出来れる稽古です。修行もまた、神様をいよいよ信じて疑わんですむ信心の確立を願っての言うならば、修行でなかならなければならんと。言う事になりますですね。 どうぞ